熊手かき

読書好きの日常

書を読むということ 「六000度の愛」

 読了。私には難しい本だった。平凡な主婦に見えて、受難を受けた娼婦の様で。キノコ雲に取り憑かれた空虚な主婦の何日間かの逃避行。

 団地の警報ベルが誤報を起こした日、女は子供を残し1人長崎に飛ぶ。そこで出会った青年はロシアと日本の血を引くハーフで自分を見ているかと思うほど似通っていた。女はアルコール依存症の兄を自殺で亡くしている。最愛の兄は死に、自分は空虚に生きている。女は青年を長崎と呼び、一時の情事に浸る。それは甘美ではなく、情熱的でもない。ただ、キノコ雲に襲われた長崎と一体化するため。数日後、長崎と女の関係は一瞬の出来事で壊れる。所詮は他人だと気付いてしまう。そして女は日常に戻る。以前の彼女とは違う女として…。

 ロシア正教の知識が惜しみなく注がれているんでしょう。私はロシア正教会を知らないから、作中の会話でそう判断するだけ。だからとても高尚に感じた。原爆が落とされた長崎。キリスト教に縁が深いその地でそういう話をされたら原爆が記念碑的と言うか、象徴となってしまっていることが退廃の様に感じられてしまう。2人の関係はまさしくそんな感じだったけど。

 この物語には私は深く入り込めない。女の精神世界の様にタブーが多すぎる。私には現実の波間をプカプカしているのが丁度いいから。チャプチャプ生きることは罪だろうか。この女を見ているとそんなことまで考えてしまう。受難を受け入れることはできる。それを乗り越える努力もする。でも、それ以外はただ浮かんでいるだけだって許されていいんじゃないかな。だって足元は必死に動いてることだってあるんだし。

 まだ1冊だけしか読んでないからわからないけど、鹿島田真希は私には合わないのかもしれない。ふと思った。

 

六〇〇〇度の愛

六〇〇〇度の愛