熊手かき

読書好きの日常

視覚に訴えるもの 「ブラック・スワン」

 ナタリー・ポートマンがとても綺麗な映画ですね。表現者はただ羅列を覚える、なぞるだけじゃなくその奥深くに自分なりの情熱、狂気を宿さないといけない。私はピアノを習っているけれど、いつまで経っても羅列の模倣以外のものを見出せない。それでも結婚してから音が変わったと言われるから多少は変化したんだろう。

 ニナは白鳥の湖の白鳥と黒鳥の二役に選ばれた。だが、自分に近い白鳥は踊れても自分とかけ離れた黒鳥だけが満足のいく踊りが出来ずにいた。誘惑する力、艶めかしさが足りない事を気にするニナは誰よりも努力をするが埋められない溝がある。新しく入ったリリーは黒鳥そのもののような女性。ニナはリリーに自分の役が奪われる事を恐れ、狂気の淵に沈みこんでいく。完璧な美を求めるニナは自分を沈みこませていくことで黒鳥そのものになるが…。

 私はにわか表現者だ。でも、ニナの苦しみの何千分の1かはわかる。自分に何が足りないか分かっていても開けない扉はある。何をやっても開けない。ニナはリリーという存在に自分を投影してこじ開けたけれど、それはニナの大事なものを消し去った。もうニナには戻れない。それほどの決意でニナはこの役に挑んだんだ。それは死を暗示することじゃない。もしかしたらニナはニナでいるために自分を閉じ込めていたのかもしれない。自分を恐れていた。一瞬母親がニナを閉じ込める檻かもと思ったけどそうじゃないのかも。ニナが母親を檻として利用していたのかもしれない。ぬいぐるみも母親も捨てたのはニナだ、他の誰でもない。そしてそれに絶望した。自分自身では完璧は目指せないと気づいたから。

 自分を超えることは自分を知ることだ。私は超えられない。知らない以上に超えたいという強い意志がない。表現者として失格だ。でも表現を愛することはできる。それで満足できるならそれはそれで幸せだ。私はそこに落ち着いた。でも稀に、なにもせずとも超えられる人間もいる。こんな私でも嫉妬するんだから、ニナは身を焦がす思いだったんだろうね。

 表現者としていろいろと感じるものがある映画でした。